食べ物もある。雨風をしのぐ家もある。
わくわく・わいわい楽しんだとき、
「幸せのお福分け」をいっしょにしてみない?

日本の、そして世界のどこかの、
命をつなげる困難に直面する人たちへ。

つながるくらしが心をつなぐ。

「お福分け」への道のり

なぜ私は「お福分け」するのでしょう
というか、本当はもっとしたいです。まだ足りません。

でも私は「お福分け」を他でもない私のためにしています。
「誰かの助け」にはなりたいですが、結局そうすることで一番幸せを感じるのは自分だとわかっています。そのあたりは確信犯です。

じゃあなぜこんな活動をするのか。
自分の人生を振り返ってみると、大きく二つの影響があると思います。


一番はたぶん私の父の影響だと思います


私の父は若いころ苦労を重ねてきました。
父方の祖父は他人の借金の保証人になり、その影響もあって事業に失敗しました。

戦後の食料難も重なり、とにかく育ち盛りの父は食べるものにさえ困ったそうです。長男だった父は行きたかった大学も諦め、高校を卒業してすぐ上京し、就職しました。

脇目もふらず働いて、家族を支えて来た両親の御陰で、私も三つ違いの姉も何不自由なく育てて頂きました。

有り難い、というのはこのことだと思います。
有り難い。今こうして私がいるのは奇跡なのだと思います。


小さい頃、姉と私が少しでも行儀が悪かったり、人や物に対する感謝の気持ちが足りなかった時は床の間のある和室(というか両親の寝室)に呼ばれ、 正座して父の話を聞かされました。

決して怒られた訳ではありませんが、戦争の恐ろしさと人間の愚かさと共に、「今ある生活を決して当たり前だとは思うな。有り難い、感謝する気持ちを決して忘れるな」ということを自らの経験談も織り込んでこんこんと説明されました。

私も姉もじぃっと涙と鼻水を垂らしながら父の話を聞きます。 

横にいる母は何も言いません。ただ、そこにいるだけです。
比較的苦労なく育ってきた母も、きっと父の話を聞いて彼女なりに考えていたのだと思います。


こんなことはしょっちゅうあったわけではありません。もしかして人生において数回だったかもしれません。でも「ありがとう&有り難い」の精神を小さいうちにしっかりと植え付けて頂いたのでしょう。父からはこのような教訓は頂きましたが、怒られた記憶がありません。


さて、何が発端で説教されたのかを唯一はっきり覚えている一件があります。

小学校3、4年生のころ、仲良しの友達がセキセイインコを飼っていたので、自分も欲しくなり、ちゃんと面倒をみるからという条件のもと買ってもらいました。

チッチが可愛くてしょうがなかった「インコフィーバー」が一段落して、初めてのペットが家にいる日常が当たり前になった頃のある日、チッチちゃんの餌をちゃんと取り替えてあげなかったことがあるのです。


インコの餌は殻がついています。だから、中の実を食べると殻が餌箱に残るので、ちゃんと箱を取り出して息を吹きかけ、軽くなった殻を跳ばさないと餌の有る無しはわかりません。

でもその時の私は、かごのそとからちょいと覗いて、しっかり確認せず、まだ餌があるから大丈夫と思った。インコの様子は全く気にもとめていなかったのでしょう。チッチはその日、確かにじーっと静かにして目をつぶっていました。一日、いや二日くらい、彼女は餌無しで過していたはずです。

自分はおやつもご飯も自由に食べられるのに、かごのなかに閉じ込められているセキセイインコの面倒をわたしがちゃんとみなければ、彼女の命はどうなるのでしょう。


それが父にばれてしまって説教を受けているときは、自分が本当に恥ずかしく、子供心に情けなかったです。いくらちゃんと勉強しても、命を大切にできなければ何の意味もない、残念だ、と父には言われました。自分以外の命の重さをはじめて受けとめたのがこの時だったと思います。


今でも思い出すと胸が締め付けられる程恥ずかしくなりますし、未だに情けない失敗も作り続けています。


特に詳しい訳ではありませんが、キリスト教では人間は罪深い存在だと説いています。生まれたときから人間は罪を重ねる存在だというのです。

確かに私達は日々奪います。他の命をとって食べなければ生きられないからです。今の地球の状態に思いを馳せればわかります。

それに、ある人が正しいと思っている事も、他の人からみたら間違いであることが殆どです。宗教が良い例かもしれません。だからこそ戦争のように正しさを追い求める人程、命を粗末にするのかもしれません。

そう言う意味ではわたしの「お福分け」は点数とりのいい子ぶっているように見えるかもしれませんが、本人はむしろ罪滅ぼしの気持ちでやっています。有り難い毎日を、本当に有り難くしっかりうけとめるためにやっています。


そしてこのような小さい頃のバックグラウンドに加えて、こんな経験がしょっちゅうあります。



皆さんは人道団体のテレビコマーシャルを直視できますか?

私はできません。

とくにおせんべいをばりばり食べながら、好きなテレビを見ている時に飛び込んでくる、飢餓でお腹がふくれ、手足が骨と皮だけになった子、うつろな目で瀕死の赤ん坊を抱く母親の映像。

私はまさに目を背けます。
目をつぶります。
絶対にみれません。
「わーっ」と大きい声を出して両耳を両手のひらで塞ぎたいほどの気分になります。


だからといってせんべいとリモコンを放り投げて、すぐ募金しようとも思えません。
ただ、何もできない自分の無力感を麻痺させて、ただCMが終るのを待ち、また元のテレビに気持ちを戻します。
心の中はもちろんざわざわしますけどね。


私、可哀想だから助けたい、という発想はかえようよ!と思います。

もしあのCMを見て寄付しても、何かを成し遂げた気持ちは数時間、数日で終ってしまうのではないかなぁ?

だって数百円、数千円、数万円でなにができるの?って暗澹とした気持ちになりませんか?それに毎回毎回寄付出来る訳ではない。その度に自分にできる寄付の限界を感じるはずです。


逆に私は人は幸せを感じる時程、人の助けになれるって思います。
可哀想だから、寄付ってのは自分にも、相手にも失礼て思います。

お金にも魂があると思います。
可哀想だから寄付ってのはお金のエネルギーがマイナスに働くのではないですかね。
可哀想だから私の分をわけてあげる。
誰かの分は増えるかもしれないけれど、確かに私の分は確実に減る、ということ。

でもお福分けはお金のエネルギーをプラスにさせる力があると思うんです。
私がこれだけ楽しかったから、感謝の気持ちをかたちにして表そうということ。
私の楽しさも増えるし、誰かもその幸せのお裾分けを受け取れる、ということ。


幸せな環境にある人はとことん幸せをむさぼるべきだと思います。

それがきっとその人のこの世でのお仕事だから。

だからこそ仲間と素敵な時を過して満たされた気分を味わった時こそ「チャリーン」ってお賽銭みたいにお空に手を合わせるのが一番自然なことだと思う。

だからわたしはお福分けをしたいのです。











0 件のコメント:

コメントを投稿